今だから語れる「ICU転職はつらかった。でも、あの経験が今の私の基礎を作った。」|コロナ患者さんと向き合った看護師の体験記

Uncategorized

看護師として、ここまで自分を追い詰めたのは初めてだった

ICUへの転職は、想像以上に過酷で。毎日が勉強、緊張、そしてプレッシャーの連続でした。心も体も、休まる時間がない中で、それでも前に進まなければいけない。

「私にできるわけがない」

「ついていけないかもしれない」

と毎日怯えていましたが、あの時間があったからこそ、今の私がある。

この記事では、新人教育も受けていなかった私が、コロナ禍の中でICUへ飛び込んだ体験と、そこで見た“命と向き合う現場”について、リアルに綴ります。


なぜICUに?転職のきっかけは「使命感」だった

前職は2次救急の病院でした。

人間関係にも恵まれ、職場の雰囲気も良く、働きやすい環境だったと思います。上司も同僚も穏やかで、子育て中の私にとってはありがたい配慮も多くありました。

でも、そんな中でもどこか満たされない気持ちがありました。

あの頃、テレビでもSNSでも、連日コロナの情報が飛び交っていました。医療崩壊という言葉も毎日のように聞かれ、ニュースでは全国各地の医療機関が疲弊している様子が映し出されていました。

「自分はこのままでいいのだろうか?」

そんな問いが心の中に湧いてきました。

人生で一度あるかないかのパンデミックの中、最前線から目を背けていていいのか。悩んで、迷って、でもその気持ちは日に日に強くなりました。

「看護師になった意味を、ここでもう一度試したい」

「自分の看護師人生の糧にしたい」

その想いだけを胸に、私はICUへの転職を決意しました。

未知の領域への挑戦でしたが、どこかで「今しかない」と自分に言い聞かせていた気がします。


新人教育なし、経験もない私がICUに入った日

私は看護師1年目でしっかりとした新人教育を受ける機会がなく、スキルに自信があるわけではありませんでした。それでもICUに行くことを決めたのです。

配属先は3次救急指定の大病院のICU。そこには、救命の最前線がありました。機械がずらりと並び、ナースステーションは常にピリピリとした空気。誰もが的確な判断を求められる場所でした。

周囲の看護師たちは、まさに「プロフェッショナル集団」。勉強熱心で、頭の回転も早く、常に冷静。ベテランナースたちは、どんな状況でも即座に判断し、次々に処置を進めていく姿が印象的でした。

私は、自分がとても場違いな存在のように感じました。

毎日、呼吸をすることも忘れてしまうような緊張感の中で仕事をする日々でした。

人工呼吸器の使い方、血液ガスの読み取り、心電図モニター、ドレーン管理、感染管理、褥瘡対応……すべてが未経験に等しく、私はひたすらに勉強し続けました。

わからないことだらけで、毎日の勤務後にはノートを開き、調べものをし、分厚い参考書を片手に知識を補いながら復習しました。当然家族との時間も減っていく毎日でした。

その頃の私は、看護学校時代よりも真剣に学び、知識を詰め込み、何度もメモを見返しながら現場で実践しました。

時には悔しくて泣いた日もありました。

でも、投げ出したくはなかったのです。自分で選んだ道だから。

でも自分自身は確実にすり減っていく感覚はありました。


コロナ患者のリアルと、削れていく“心”

ICUでは、コロナ重症患者の対応が日常となっていました。誰もが不安を抱え、患者さんの状態も急変しやすい中、私たちは集中力を切らすことなく勤務にあたっていました。

私たちは全身を防護服で覆い、ゴーグルとフェイスシールドを装着し、1回のケアに入るたびに呼吸が苦しくなるほどでした。

当然防護服の中は汗だくで、したたり落ちる汗が目に入って、いつも目が痛かったです。

感染予防のために動きも制限され、普段なら簡単に終わる処置も倍以上の時間がかかることがありました。

患者さんとの接触は最小限。病室の中は、機械のアラームと換気装置の音だけが響いていました。窓も閉ざされ、外の世界と遮断された空間。そこにいる患者さんの孤独は、計り知れないものだったと思います。

「こんなところにいたくない」「家族に会いたい」と涙ながらに訴える患者さん。

その姿を見ながら、私も心を保つのが精一杯でした。精神的なケアすら行き届かない現場でした。

言葉をかけても、届いているのか、励ましになっているのかさえわからない日もありました。

亡くなった方の最期に立ち会ったこともあります。

ご家族に会わせることすらできず、全身を袋で包み、淡々と処理をするあの時間。

「これが最期なんだよね?」と、自分の親を見送ることすらできなかったご家族の心情を思うと、何度も胸が痛みました。

日本ではそこまで報道されていませんでしたが、海外では遺体の安置場所が足りず、路上に置かれるほどの混乱がありました。

ICUの現場で働きながら、私も「日本でも同じことが起きるのでは」と恐怖を感じていました。

日々の勤務で心がすり減り、夜勤明けにはアラーム音が頭から離れず、夢にまで出てくることもありました。

家に帰っても頭の中は現場のことでいっぱい。眠りも浅く、慢性的な疲労感に悩まされていました。


それでも私は後悔していない

あの時期は、私の看護師人生の中で最も過酷で、最も試された時間でした。精神的にも、肉体的にも、限界を何度も超えていました。

でも、それでも私は後悔していません。

あの現場にいたからこそ、「私は看護師なんだ」と心から思えるようになったからです。あれほどまでに命の重みを実感することは、今後の人生でもそう多くはないでしょう。

たった一言の声かけ、手を握ること、身を乗り出して伝えた言葉が、患者さんの表情や呼吸を変えることもありました。

命のそばにいる緊張感はありますが、それと同時に、心からのやりがいもありました。誰かに必要とされている、自分の存在が少しでも力になっている――そう思えた瞬間が、どれだけ救いになったか分かりません。


【まとめ】ICUでつかんだ“働き方の選び方”

ICU勤務を通じて、私は「がんばり続けるだけじゃダメなんだ」と気づきました。

“命と向き合う”という重圧の中で、自分自身が壊れてしまったら、何の意味もない。頑張りすぎて自分を見失った先にあるのは、燃え尽き症候群だけです。

私たちは誰かの命を預かる仕事だけれど、まずは自分自身を大切にできなければ、看護師としても続かないということを、痛感しました。

この経験があったからこそ、私は「もっと自分を守れる働き方」に目を向けるようになり、結果として外来勤務という次のステージを選ぶことになります。

次回は、「燃え尽きた私が外来を選んだ理由」についてお話しします。少しずつ、自分らしい働き方を見つけていった過程を、またお伝えできたら嬉しいです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


おすすめ記事

さくらナース
さくらナース

おすすめ記事です。ぜひ見ていってね!

7回の転職経験からわかった“看護師が幸せに働ける職場”の条件とは – さくら|7転び8起きナース 7回転職して気づいた“看護師が幸せに働ける職場”とは?

看護師新人教育なしでも働けた私のリアル体験 – さくら|7転び8起きナース 新人教育なしで働くママナースのリアル体験談 ブランク明けでも続けられた理由

看護師として7回転職してわかった「辞めるべき職場」と「残るべき職場」 – さくら|7転び8起きナース 看護師として7回転職してわかった「辞めるべき職場」と「残るべき職場」

コメント

タイトルとURLをコピーしました